通勤読書5冊目 [長期研究時代]
5冊目。
電子書籍で読んだ。
竹田青嗣のフッサール、ヘーゲル解釈が色濃く感じられる現象学と弁証法理解。
そう感じるのは、自分自身も竹田氏に導かれてフッサール現象学の入り口に立ったから。
論旨が明確で大変読みやすかった。
新書1冊によくぞこれだけの内容を盛り込んだというくらいの意欲作。
その分、もっと具体的に展開してほしいという部分も多かったが、それはこれからに期待、というところだろう。
理想的ではあるけれども、現場の現実に立っていない。そう感じる部分がいくつもあった。
たとえば「超ディベート」。理念的には大変素晴らしいのだが、子どもの実態からは大きくかけ離れた提案だと思った。
「砂上の楼閣」「絵に描いた餅」というと聞こえは悪いが、現場の垢に塗れていないからこそ理念的な場所から提案できる。
これって大切なこと。
現場感覚で物事をとらえるのに慣れた自分には「新鮮」に感じた。
現場を離れた今だからこそこの本と出会えたのだろう。
教育哲学者という肩書だが、哲学にも多く言及するカタイ物言いにも好感。
苫野氏の別の本も読みたくなった。
150408 はじめての年休 [長期研究時代]
上の娘が体調不良のため、年休を取った。
もしかしたら、こうした形で仕事を休むのは初めて(!?)か。
今年度はこういう機会が増えるかもしれないな。
病気の娘と元気いっぱいの娘とを抱えて、自分の時間を確保できるはずもなく、
今日は一日「娘のため」と割り切り、彼女たちのペースで過ごすことにする。
人のペースに合わせることが苦手なので、なかなか厳しい一日だった。
今まで、よく教員をやってこられたものだ(笑)。
彼女達が昼寝した隙をうかがって、久しぶりにキルケゴールを読んだ。
「関係」という言葉に特別な重みを与え、そしてブーバーやマルセルへと自分を導いてくれた書。
彼の生涯を知り、年齢を重ねた今、大学生だった頃とは全然別物のように読める。
哲学というよりは人生論。
読みながら吉田松陰を思ってしまうのは、間違いなく「花燃ゆ」の影響。
さて、今日は安心して仕事にいくことができるだろうか。
そろそろ娘達を起こす時間だ。
150407 [長期研究時代]
月曜日はほぼ一日、文科省から出ている資料を読んで終えた。
今日は、半日研修があった。
やらなければならないことがあるとホッとする。
そんな自分の感覚に新鮮な驚きを覚える。
昼食は研究員仲間と食べている。
あれっ、自分はこんなに良くしゃべる人間だっただろうか。
人間的なかかわりに飢えているのだなぁと思う。
娘たちとは十二分にかかわっているのだが、彼女らはまだ人間ではないということか(笑)。
よくしゃべったと自分では思った。
それでも「もの静か」と評されてしまう私の前世は、間違いなく石。
美しい人間に会いたくて、「忍ぶ川」を読む。
10年振り以上か。
当然、続編とされている「初夜」「帰郷」「団欒」は読まない。
理由は推して知るべし(笑)。
久しぶりに「ユタ」を読みたくなった。
「そうよ、コンラート」というザンナの素直さに、下の娘の面影を見る。
長期研究員生活 [長期研究時代]
この春から学校現場を離れた。
学校に籍を残しながら1年間、長期研究員として働くことになった。
電車通勤、スーツでの生活、座り仕事中心の一日。
転職したのではないかと思えるほどの生活の変化。
非常に苦しい。
この苦しさの一番の要因は、
「自分が望んでのことではない」
という思いが未だに捨て切れないことにある。
長期研究員の話があったのは3月の頭の卒業式練習が始まる直前のこと。
青天の霹靂だった。
それから1ヶ月。
折に触れ、「1年間勉強するチャンスをもらえたのだ」と思うようにしているのだが、未だに心が受け入れてくれない。
書くことで受け入れたくない心情が強化されてしまうようでイヤなのだが、
苦しいものは苦しい。これが偽らざる今の心境だ。
とはいえ、嬉しいこともある。
一番は、家族との時間が増えたこと。
娘達に読み聞かせをしながら眠りに就き、弁当をつめながら朝食の準備をし、一緒に食事をとる。
当たり前のようなことがとても嬉しい。
相方は3年ぶりの現場復帰+はじめての1年生担任+新しい学校。
いろんな意味で余裕がない1年になりそうなので、今年は自分が家庭を支えなければと思う。
さて、昨日は入学式と始業式。
卒業していった彼らは、今頃制服で小学校に顔を出した頃だろうか。
元担任が何も言わずに学校から「消えている」ことをどう受け止めるのだろうか。
…我ながら、未練がましいと思いつつ、彼らの制服姿を見たかった思いを打ち消すことができない。
気もそぞろのまま学習指導要領を読んで一日の大半を過ごした。
今日は離退任式。
1年後に戻る自分は、離退任ではないのでもちろん出席せず。
割り切れないのは仕方がない。
が、そろそろ新しい生活にも身を入れていきたい。
この春、卒業していった少年にこの本を贈った。
たとえ、それがどんなに小さかろうと、ぼくらが自分たちの役割を認識したとき、はじめてぼくらは幸福になり得る。
そのときはじめて、ぼくらは平和に生き、平和に死ぬことができる。
なぜかというに、生命に意味を与えるものは、また死にも意味を与えるはずだから。