2018-10-27

▼林間学校のテーマソングを決めた。

テーマソングを設けること自体の是非は置いておくとして、気になったのは子ども達の選んだ曲だ。

各クラスから意見を持ち寄り、話し合いを経た多数決で決まったのが、YouTuberが歌っている曲だった。

歌い手はもちろん、曲も私には聞いたことのないものだったのだが、子ども達の3分の2には馴染みのある曲らしかった。「時代が変わったな。」と思った。

私自身が流行に疎いということもあるが、それにしても最近の子ども達のYouTube視聴率はものすごい。テレビをほとんど見ない子がいるというのもあながち嘘ではないのだろう。

▼はじめは、情報獲得手段がテレビからインターネットへと変化したという単純な話だと思っていた。しかし、ことはそんなに単純なものではないのではないかと考えた。

▼今の時代は、玉石混交の雑多な情報を自分の趣味嗜好によって自由に得ること(あるいは得ないこと)ができる。かつては、テレビを見るにせよ、ゲームをやるにせよ、友達に電話をかけるにせよ、親が介在していた。その制約は煩わしさであったが、制約によって守られている面もあった。

制約がなくなったことで、良いか悪いかはともかく大きな「変化」があった。たとえば、子どもが取り組んでくる自主学習の内容を見ていても、昔だったら小学生が到底知りえないようなことを書いてくる子が増えた。「シュレディンガーの猫」「H.P.ラヴクラフトのクトゥルフ神話」「マンデルブロ集合」「ゲシュタルト崩壊」「I LOVE YOU.を月がきれいですねと訳したのは夏目漱石(これは俗説らしいが)」・・・情報源は、インターネットであることは間違いない。

▼知識の垣根が取り払われること自体は、問題はあれ望ましいものだと個人的には思う。しかし、一方で、常識といってよいであろうことを知らない子が激増していることに危機感を覚える。6年生を担任することが多いのだが、アメリカや中国、韓国の位置すら知らない子が年々増えてきている。ネットスラングや差別的な言動を無自覚に使う子も増えた。知の偏りの個人差が大きくなった。

▼知の偏りの個人差がさらに広がっていったとき、「私は私、あなたはあなた」がより認められるようになったとき、どうなるか。多様性が尊重(いや、尊重ではなく野放しか)された結果、個々の内面は単一的な価値観にこりかたまっていくのではないか。

▼・・・そんなことを考えながら、ふとその危惧は世界に向けるべきものではなく、自身に向けるものであることに気付く。「お前は単一的な価値観の中で考え判断し、それを人に押し付けてはいないか?あるいは自身の価値観とは合わない物事に対する関心を失ってはいないか?」

▼30代半ばくらいから、子ども達との適度な距離感を大切にしてきた。親密すぎる関係が、子ども達に悪影響を与える自他の多くの失敗を見てきたからだ。最近そのルールを緩めているのは、関わりを通して自身の固まった価値観を何とかしたいと感じているからかもしれない。そういえば、今年度の学級では、子ども達に「先生」ではなくあだ名で呼ばれる(休み時間限定であるが)。これまでの自分にはなかったことだ。他の先生方が子ども達とそのような関係を築くのはともかく、自分自身はあだ名で呼ばれるような関係が嫌だったのだ。それが少し変わってきている。

▼ある年齢までは、子どもとの適度な距離感が大事。でも、ある年齢からは、自分から距離を詰めていかなければ子ども達とのギャップは埋まらない・・・というような言葉をどこかで読んだ気がする。自分の教員人生も折り返し地点を過ぎたということか。そんなことを思う。

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2018-10-27

「学校での教育活動は、子ども達の善意によって支えられている。」

当たり前のことなのだが、落ち着いた環境の中にいると、そのありがたさを忘れてしまいがちだ。

休み時間を使ってある活動をしている時のこと。各クラスの子達に声をかけたのだが、数名の子が来るのを忘れていた。それに対し、怒りを抑えられない子がいた。

自分達は、本来休む権利のある時間をつぶしてきてやっているのに、来ないで遊んでいる奴らがいる。許せない。もう自分はこの活動に参加しない。イヤな思いをさせた埋め合わせとして授業をつぶして遊びにしろ、というのである。その後、その子が人や物にあたることを止めたことで怒りに一層拍車がかかってしまった。

かなり長い時間怒りが収まらない状態が続いたが、担任による説得の効果か、あるいは時間が感情をなだめたのか、この子は昼休みにはしぶい表情ながら活動に参加してくれたのだった。

さて、学校での日常をふり返ったとき、休み時間を委員会や活動の練習として当ててしまっていることは多い。高学年は特にそう(私の身近なところだけの話だろうか?)。これまで、「そういうものだ」という感覚の中で自分自身も休み時間を「頑張ってきてしまった」し、子ども達にも「頑張らせてきてしまった」。

「頑張ってくれていることを忘れていたな・・・君達の善意のありがたみを忘れていたよ。いつも頑張ってくれてありがとう。」・・・それでよいのだろうか。子ども達の善意によって支えられてきたこれまでの在り方は、本当によかったのだろうか。

白か黒か、という単純な話ではない。かといって、ケース・バイ・ケースとひとくくりにして思考停止してよい問題でもない。今年はいろいろと考えさせられることが多い。



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2018-10-21

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あと1週間ほどで林間学校。

学級通信で、保護者の方にスタンツ衣装の協力をお願いする。

楽しんで練習に取り組んでいる様子が伝わるよう、時間をかけて描いた。

(最近、ずっと絵を描いていなかった…)


保護者の方のためでもあるけれど、一番はクラスの子ども達のため。

頑張っている彼らの気持ちを高めるのに役立てばうれしいのだけれど。

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181018

林間学校の準備の話。

6年生の職員で生活係・レク係・食事係と分担して、子ども達の指導をしている。

私は生活係を担当。開閉村式・朝の集いの司会や点呼、掃除分担決めなどを行う係である。班長的な役割が主となる係なので、それなりにしっかりした子たちが集まっている。

一方、レク係はやる気にあふれる子たちも多い反面、他の係はイヤだから…という後ろ向きな理由で来ている子も少なくない。練習が大変だという話を耳にした。

昨日は、生活係の司会の練習もあったが、確認を済ませた後、レク係の練習にも顔を出すことにした。さて、どんなものだろう…と思っていたら、ちゃんとやっているではないか。声もしっかり出ているし、態度も悪くない。

安心していたら、練習終了後、担当の先生から「〇〇くん、先生が来た瞬間に態度が変わりましたよ。」という言葉が。そういえば、目線などにこちらをうかがう様子を感じられた。そういうことだったか。

かつての自分だったら、相手によって顔色を変えるその子のことを責めていたかもしれない。

しかし今は、「成長の途中」だとその子の言動をとらえられるようになった。

(指導してくださっている先生には、迷惑をかけてしまっていることにお詫びの言葉を伝えた。)

今は、担任だけには格好つけたいという気持ちが育ってきた。

次は、担任以外の前でも格好つけたい気持ちが育っていけばいい。

そしていつかは、誰が見ていなくても、自分自身のために格好つけていたいと感じられるようになれば最高だ。

私たちの役割は、子どもの至らぬ点を非難することではなく、それに気付かせ、成長したいと願うように導いていくことだ。

そんな思いを再確認した。


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頑張れ

初めて受け持った卒業生の子たちが成人したのがもう2年前になる。

成人式で再会した際、教え子の2人が教職を目指していることを知った。


先日、2人から採用試験合格との連絡を受けた。

採用までの道のりは楽ではなかっただろう。

しかし、本当に苦しいのも、本当に楽しいのも「これから」だ。

頑張れ。


頑張れ、と書いて、それは彼らだけに向けた言葉でないことに氣付く。

私も頑張ろう。






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