トリカのちかい [読書・映画・音楽]
マッドガイドウォーターの物語、第2巻です。
一読後の感想は「冗長」でした。
薄絹を重ねるように表現を折り重ねることで、当たり前の景色に深みと彩りを与えていく。そうした表現方法自体は悪いものではないのですが、物語を読み進みたいこちらの速度と噛み合わないと、表現の豊かさは途端に「鈍重でたいくつなもの」に変容します。
「味付けはよいのだけれど、ちょっとくどくてもたれるな・・・。」そんな残念な感想をもちました。
でも、時間を空けて読んでみたところ、2回目はまったく違う読後感でした。
駆け足にならずに進んでいくスピードが心地よいのです。
作者の梨木さんが描きたかった世界はこれなんだな、と妙に納得しました。
どうやら一読目は、現実世界の速いスピードに身を置きながら読んだせいで、マッドガイドウォーターの世界に入り込めていなかったようです。読書は、自身の置かれている状況を鏡のように反映する…だからこそ同じ本を繰り返し読む価値があるのでしょう。一読で終わりにしてしまわず、ほんとうによかったです。
さて、2回読んでみて、印象に残っているのは「トリカのちかい」の章です。トリカは、つい嘘をついてしまう自分の性格が母親を困らせていることに気付きます。そのトリカに対し、ほのおの革命家(この秀逸なネーミングセンス!)が言います。
「きみが思わず口から出てきそうなうそを、ぐっと一回こらえたら、お母さんは自分の心臓をしめ上げている目に見えない何百もの薄紙が一枚、ふっと消えたように思うだろう。二回こらえたら二枚、薄紙がはがれたように身が軽くなるだろう。三回こらえたら三枚…。そうして、百回こらえたら、お母さんはすっかり元気になる。」
「三年間、地道に、まったく空想をまじえずに、うそをつかずに生きてごらん。ほんとうのことだけを口にして、地に足をつけて生きるんだ。」
なんと優しく説得力のある言葉でしょう。
この物語には、宝石のようにきらびやかではないけれど、ずしっと重みのある言葉がそこかしこにあります。この秋、何度も読み返すことになりそうな、そんなステキな一冊です。
レモンの図書室 [読書・映画・音楽]
「少女ポリアンナ」「赤毛のアン」「黒馬物語」「アンネの日記」「くまのプーさん」「オズの魔法使い」「穴」「ワンダー」・・・本は友だちになれる?
帯に書かれている小説群のタイトルを見てピンとくる人たちは買いでしょう。
本を心の拠り所として生きている少女カリプソが、本以外の拠り所と出会い、成長していく物語です。
カリプソには、妻をなくした悲しみから目を背け、仕事に逃げ込む父親がいます。
愛する人をなくした悲しみは同じなのに、その思いを共有できない父娘2人。袋小路のような現状を変えていったのは、大人である父ではなく娘のほうでした。
カリプソのように、幼くして家族の介護や看病をせざるを得ない立場になる子どもが、イギリスでは増えているそうです。「ヤングケアラー(若い介護者)」と呼ばれる子どもたちの存在は、日本でも近年大きな社会問題となっているとのこと、恥ずかしながら、私はこの本を読んで初めて知りました。
現実世界にできた「親友」を拠り所に、カリプソが困難を乗り越えていく姿は感動的です。
ですが、自身の思春期のありようを思うと、素直に感動できないのも事実です。
「本当に人間は、こんなに前向きに変容できるものかしら。」
と、「てぶくろを買いに」の母ぎつねのような懐疑的心情になります。
この部分は、読者の年齢やこれまでに重ねてきた経験によって、評価の分かれるところなのかなと思います。
(素直に共感はできなかったものの、決して悪い読後感ではありませんでした。念のため。)
もう一点。
物語のタイトルにもなっている「レモンの図書室」、この物語の重要な場面で、レモンがずらりと並んだ書架が象徴的に描かれるのですが、梶井基次郎の「檸檬」を思い出さずに入られませんでした。
日常的なものでありながら、ある特殊な状況の中に置かれることによって、それが非日常的なものに転換する・・・この物語も、「檸檬」も、その題材としてレモンを選んでいるところが興味深いです。
巻末には、「カリプソの読書案内」が付いています。
この物語を楽しめた人は、きっと好きであろう読書リストです。とりあえず私は、久しぶりにダールの「アッホ夫妻」が読みたくなりました。