語の意味とは語の使用のことである [長期研究時代]

先日、庭でシャボン玉遊びを終えたあと、上の娘に
「楽しい時間を過ごせたね」
と言われ、思わず絶句。そんな素敵な言葉をどこで覚えたのだろう?
うれしくてたくさん褒めたら、やたらと使いたがるようになった。

春休みに行って大好きになった箱根彫刻の森美術館。
「おとうちゃん、また楽しい時間を過ごしに行こうよ。みの、目玉焼きだーい好きだから!」
といって誘う。親バカで恐縮だが、それが実にかわいい。
(「目玉焼き」というのは、彫刻の森にあるモニュメントのこと。行ったことのある人ならばピンとくるだろう。)

娘たちの語彙が豊かになってきたのは喜ばしいことだが、心配な面もある。
最近気になったのが下の娘のこと。

何があっても謝らなかった彼女が、最近やっと「ごめんなさい」を覚えた。
ところが今度は、やたらと「ごめんなさい」を連呼するようになった。
「何がごめんなさいなの?」「お箸を投げません、と言うんだよ」「お姉ちゃんに噛みつきません(笑)と言うんだよ」と話しても、
泣きながら「ごめんなさい」をくり返すのみ。感情がフローしているときに理詰めでいじめているわけではない(はず)。
心のない謝罪の言葉。「政治家の素質あり」という冗談はさておき、
そんな娘を見ていて「心」とは何か考えてしまった。

語の意味とは語の使用のことである、と語ったのはヴィトゲンシュタイン。
「ごめんなさい」を適切に使えるようにはなったが、伴なってしかるべき「心」がまだ育っていない。
だから、上っ面だけの「ごめんなさい」となる。
両親に叱られる気配を察し、「ごめんなさい」と言えば許される。
「ごめんなさい」は、まだ彼女にとって免罪符でしかない。
上っ面だけでも上手く語を使用していれば、意味は通じるし、言語ゲームは成り立つ。
自分が「心」と呼ぶものがなくても、関係は成立してしまう。
それはちょっと恐いなぁと深く考えもせず思っていたが、転じて自分に目を向けてみるとどうだろうか?
今まで自分が形成してきた諸々の関係に、本当に「心」はあったか?
たくさんの関わりの中で、たくさんの言葉を交わしてきたが、その言葉は「上っ面」のものではなかったか?
そんな「やましさ」を感じてしまうこと自体が、不誠実であった証ではないかと言われてしまいそうだが、ではやましさを感じない人はいないのだろうか?そんな他愛もないことをふと思う。

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