2018-10-27

「学校での教育活動は、子ども達の善意によって支えられている。」

当たり前のことなのだが、落ち着いた環境の中にいると、そのありがたさを忘れてしまいがちだ。

休み時間を使ってある活動をしている時のこと。各クラスの子達に声をかけたのだが、数名の子が来るのを忘れていた。それに対し、怒りを抑えられない子がいた。

自分達は、本来休む権利のある時間をつぶしてきてやっているのに、来ないで遊んでいる奴らがいる。許せない。もう自分はこの活動に参加しない。イヤな思いをさせた埋め合わせとして授業をつぶして遊びにしろ、というのである。その後、その子が人や物にあたることを止めたことで怒りに一層拍車がかかってしまった。

かなり長い時間怒りが収まらない状態が続いたが、担任による説得の効果か、あるいは時間が感情をなだめたのか、この子は昼休みにはしぶい表情ながら活動に参加してくれたのだった。

さて、学校での日常をふり返ったとき、休み時間を委員会や活動の練習として当ててしまっていることは多い。高学年は特にそう(私の身近なところだけの話だろうか?)。これまで、「そういうものだ」という感覚の中で自分自身も休み時間を「頑張ってきてしまった」し、子ども達にも「頑張らせてきてしまった」。

「頑張ってくれていることを忘れていたな・・・君達の善意のありがたみを忘れていたよ。いつも頑張ってくれてありがとう。」・・・それでよいのだろうか。子ども達の善意によって支えられてきたこれまでの在り方は、本当によかったのだろうか。

白か黒か、という単純な話ではない。かといって、ケース・バイ・ケースとひとくくりにして思考停止してよい問題でもない。今年はいろいろと考えさせられることが多い。



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