過保護と過干渉 [読書・映画・音楽]
ランサム・サーガ4作目『長い冬休み』読了。
ウォーカー兄弟とアマゾン姉妹、D姉弟が加わり、一層にぎやかになった今巻。
「北極圏」を目指すという体験を特別なものにするため、子どもたちが大切にしたのは「秘密」。
「秘密」とは、未知の余地を残しておくこと。
それこそが、冒険を冒険足らしめるのに一番大切なものであることを、子どもたちは知っている。年少のロジャでさえも。
だから彼らは、敢えて確認を怠る。聞きたくても聞かない。
物語では、それが波乱を巻き起こすことになる。
・・・結果として彼らは、望んでいた以上の冒険を味わうことになった。
大学時代に読んだ時は、自閉的で自分の世界を持つディックと、ティティ以上の空想癖を持つドロシアのD姉弟に強い共感を覚えた。彼らの冒険に心からの喝采を送ったものだ。
今もその気持ちは変わらないが、「もしかしたら、大変な事態になっていたかも」という「原住民的」感情がより強く顔を出すようになった。守るべきものを持った親の感情だ。
蛮勇は、良い結果によって帳消しにされる訳ではないのだ。
だからこそ、キャプテン・フリントとブラケット夫人の対応が光る。子どもたちに寄り添っているとはいえ、自分たちの庇護から離れた行き過ぎた冒険に対し、本心では「原住民的」対応をとりたかったかもしれない。しかし、それをしなかった。
8人全員が北極点にたどり着いたのを確認したとき、眠る子どもたちに対して2人のとった対応は、目覚めるまで待つことだった。子どもたちと共に眠るということだった。
現在の価値観では「あり得ない」対応だ。たぶん、当時でもそう。物語だから許される「寛容」なのだ。
ランサム・サーガにおいて、大人たちは子どもたちの世界に干渉をしない。(そうでない例もあるが)
しかし、無関心ではない。過保護なほどの確認を決して怠らない。
だからこそ、子どもたちは安心して冒険をする。
失敗や冒険に対する責任を自分たちで引き受けようとする。
信頼を裏切るような「ノロマ」な行為を心から恥じる。
失敗に対する寛容と挑戦に対する責任が、シーソーの両端で釣り合っているのだ。
「過保護はあっていい。過干渉がダメだ」というのは、明橋大二の言葉だったか。
自分の娘に、また、クラスの子どもたちに対し、どうだったろう。
そんな自省を迫られる読書になった。
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