網戸 [ことば]
最近足癖の悪い姉が、網戸を蹴飛ばす。
それを見て、妹の藍里も真似をする。
いつかはやると思ったが、とうとう網戸に穴を開けてしまった。
これが夏休み最後の週の出来事。
張替など、今までしたことがない。
業者に頼もうかと思っていたが、さて、どこに行けばよいものか。
(こういうときに、すぐに調べようとしないのは、自分の悪いところ。)
1週間ほど放置していたが、さすがにこのままではまずい。
100円ショップで網戸張替グッズなるものを見つけたことも手伝い、一念発起、自分で張り替えてみることにした。
結果、1時間ほどかけて、張替を終えたものの、「成功」とは言い難い見栄えになってしまった。
売り物の網戸は、人の手による作品か、それとも機械によるものか。
それは分らないが、「芸術品」と読んで差し支えない完成度。
改めて、技術というものに感嘆の念を抱く。
それは、享受することしか知らないキリギリスが、生成の喜びを知るアリに対して抱く感情だ。
享受の中から喜びを生成するフレデリックのようなものもいるが、それはまた別の話。
既製品に囲まれた生活をしていると、それは誰かの手による作品だということを忘れてしまう。
大半は機械によって半ば自動的につくられたものであるにしても、ではその機械は誰が作ったものか。
全ての「もの」は、元をたどっていくと必ず「手」にいきつく。
その手の偉大さを忘れてはならない。
観念的な生活。
知っているつもり。
分かっているつもり。
本当の世界は、観念の中にではなく、手で触れることのできる現実の中にのみある。
(観念は、現実の向かうべき方向を指し示す羅針盤、とは誰の言葉であったか。)
手こそが人間的な生を根底から支えている。
生成するものについては技術の端初が、存在するものについては知識の端初がある。
あらゆる技術は事物の生成にかかわる。
ずっと触れてもいなかったニコリンを本棚から引っ張り出し、意味もわからぬままページを繰ったのはそういうことがあったから。
娘が網戸を蹴破ったので、私はアリストテレスの「二コマコス倫理学」を飛ばし読みした。
風が吹けば、桶屋がもうかるわけだ。
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